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首都高をぐるぐる走り回る映像を、ユーロチューンとともに。

大阪桐蔭の順当な勝利。おめでとう。

イーグルスがアルバム売上最高に=マイケル・ジャクソン抜く-米:時事ドットコム jiji.com/jc/article?k=20180821 @jijicomさんから
もうなんちゅうか「数え方による」という時代にこんな数字出されても喃。

俗に云う「郷に入らば郷に従え」は、何も魂の底から屈服せずとも良い。バレぬ程度に面従腹背しておれば、いずれ去る段になって面倒事を引き受けなくても済む。学生さんの下宿生活思えば、そこら辺の呼吸はご理解いただけるかも。

価値観の相違は必ずしも乗り越えねばならん種類のものではないが、「あっちとこっちが違う」という事実は、知った以上はそのようなものであるという認識を持たねばいけない。

ジャンルが定まり、その中で多数かが起こり、つまり多様化と陳腐化が数の暴力によって果たされた現状を思えば、「あ~る」のような"メジャーカルト”は今の世の中には存在しにくくなってるのかも知れないなあと、ふと思いついた。どうなんじゃろうね。

ボックスセット付属の冊子にも言及されていたが、元祖ではないにしろ「あ~る」も日常系漫画と呼ばれるジャンルのはしりではあった。日常描写の間にぎっちり詰まったシチュエーションコメディースケッチ。そう考えると、18年現在様々なそういう作品があるのはわかる。

流石に今現在はどーじゃか知らんが、あの頃「あ~る」は運動部に対するルサンチマンを打ち消す、大変に霊験あらたかな文化部の聖典扱いを受ける作品であった。今の世の中にも同じ様な扱いを受ける同時代の漫画がきっとあるのじゃろう、僕が知らんだけで。

「究極超人あ~る」の第10巻を手に入れるためだけにボックスセットを揃いで購入してしまう。こんな事を言うとアレだが、今の御時世だと「飛び道具」とか「やったらあかんやつ」「何処が面白いのかわかんない」とか半可通に言われそうなネタばっかりだったな、この漫画。ああ、久々に読んで心洗われた。

僕が何ぞ高尚に聞こえること言うたかて、描き散らしてるのこんなんやからな。信用すんなよ。

C94 夏コミ新刊サンプル | 真砂和好 pixiv.net/member_illust.php?mo

これで大垣日大あたりをボッコボコにのす展開だったら、「まあ当然よね、大垣日大もなんでこんな決勝にのこのこ出てこれたのよ」みたいな感じで、大阪桐蔭褒められただろうに。

大阪桐蔭、損な相手が決勝だな。勝っても負けても叩かれんじゃねえのこれ。

生産的な提言めいたものが書けぬ。いやまあ、誰に期待されてるわけでもないが。

西洋から見たら一事が万事「東洋のあべこべ国」であった近世日本。

パトロンになりたくとも、そもそも貧乏で自らの生活すら容易に成り立たなかった近世日本のお貴族連中は結局どうしたかと言うと、自らがクリエイター教室を開いてお月謝頂かなきゃいけなかった。町人連中の表現者の方がお金持ちだったりした。

出版物に印刷複製して数多の消費者に消費されるのではなくて、オーダーしたら画家の物理肉体事拉致って生活全般をお世話しなきゃならなかったのだから、昔の西洋のお貴族連中という奴らは大変なマゾヒスト集団だ。

昔々の絵かき連中は、産地直送地産地消型のクリエイトだったので、中抜きコストが今とは桁違いに少なかった。誰も出版社やなんかの社員を養わなくてよかったのだから、そりゃ工房も構えられるはずである。

「民主主義というもの程呪わしくも最低な仕組みはまたとない。が、これより良いものはまだこの世に存在しないのだ」サー・ウィンストン・チャーチル 英国 政治家

チャーチル卿が民主主義政体に対してお嘆きあそばされたような理屈で以て貨幣経済社会を嘆いてみせたところで、チャーチル卿が自らの嘆きに自分でオチを付けたように、今すぐなにか新しく素晴らしい素敵な何かが待ってる世の中にはなりゃしねえわな。

貨幣という価値交換ツールは、その無意味さ故にあらゆるものと交換できる。時間にも、人の命にも、なんだって換算することが出来る(当然表現成果物にでも値段は付けられる)。交換すべき物が定められている、つまりそれだけの意味しか持たぬ配給クーポンとは全然違う。こんな物を活用しないと生活できない仕組みになっている社会は、まあ簡単に言ってクリエイターをあっさり殺すことの出来る地獄である。

かね、カネ、金。自分の表現を金に替えるということは、自分の生活時間を特に意味付けのない価値と交換する、つまり魂の切り売りである。よって本来、表現者なりクリエイターなりと呼ばれる存在は、自分の表現をマネジメントしてくれる他者というパートナーが必要なのだ。でなければ植えて死ぬと言うより、魂が枯れて死ぬ。