T長💀しをぼく単行本発売中 @jemibiozoms@pawoo.net

1日の活動量に応じてグラフが埋まっていく機能めちゃくちゃ楽しい やった おれは健康を手に入れるぞ!!

夫の者から誕生日プレゼントにApple Watchもらってしまった… そうか夫家には誕プレあげる習慣あるんだった…。ここんとこずーっと体力欲しい健康が欲しいって言いまくってたからくれたんだろうな。これで死んだ虫体操がもっと楽しくなる ありがたい… てか腕時計持つの10年以上ぶりだ。手首が細くて好きなデザイン(たいてい男物)の時計のバンドの長さが最短にしてもブカブカな事が多すぎて時計買うの諦めちゃってたんだよな…そういえば…

例の腐女子の方は単純に友達に会って彼女らのスタイルに憧れたってだけの話でそんなネガティブな話でもないと思うんだけどな… そりゃ友達見て素敵だなって思って自分もそうなりたいと思ったんならどんどんそっちの勉強すればいいしそれはとても楽しいことだと思うよ… ただべつにそうなりたくないのに無理して年相応の格好とやらに合わせる必要はまったくないわけで、それとこれとは全然話が別のことだと思いました
あんまりポリシーもなく迷走してたけど友達の服装が素敵だったからそういう系統のも着てみたいな〜って話なので、アラサーで変な服着てノーメイクの女全員そうしろって話じゃないから、全国のアラサーで変な服着てノーメイクの女はべつに不安に思わなくて全然いいのにね
うちの母はボンジョビのTシャツ着てノーメイクで出歩いてるけど友達沢山いて毎日楽しそうです。

社会性動物においては生殖行動しない個体いるのは生物としてまったく正しいんだよね。蜂もそうだけど 群れの中で生殖行動にエネルギーを使わない個体が一定割合いることが種族全体の繁栄につながるわけで。で、個体の遺伝子のレベルの話で考えても、例えば兄弟の生殖行動を間接的に助けることで、自分と遺伝子が1/4程度一致した個体が繁殖できるならぜんぜん損ではないわけで、生物としてさびしいなんて論はぜんぜん当てはまらない。こと人間においてはむしろ社会の中で自分と似たタイプ(遺伝子)の人間が繁栄できるよう生きるみたいなことも可能なわけで、恋をしない人が一定数いるのは正しさしかない。
とはいえ異性と恋をする人が「絶対したほうが良い」などと言いがちなのは、生殖行動そのものがギャンブル的でリスクのあるものである以上それをやることを強固な気持ちで是としていこうという本能的な後押しがあるとも考えられるのでたぶん悪意ではない。

キャラクター造形のためには人間の考え方の多様性を知る必要があるんで、どちらかというと全然気が合わなさそうな自分とまったくタイプの違う人に仲良くしてもらえるのとてもありがたいわけで、でもだからといって似たところのある人、おそらくある部分においての波長が重なっているであろうタイプの人との交流がつまらないというわけではなく、一見ざっくり同カテゴリな人との違いを楽しむのもまた多様性の学び方なんだよね…
ただ、漫画の人たちはみんなその情熱を創作に向けていてとても気持ちがよかった 現実には「どうしてあの人と仲良くしているの わたしの方が気が合うよ」という事を直に言われてしまうこともあるからね… そしてそういう人たちは違うところよりも同じところを良しとするので、根本的にお互い違うところがあるということに気づくと、裏切りのように感じてしまうパターンもある。誰が悪いというのでなくそれはもうそういう仕組みのようなもので、止めたいと思っても止められないことも多い。

おけけパワー中島さんはいい人そうだよね…ものづくりやる人は多くが内向的(いい意味でも悪い意味でも)だからコミュニケーション上手い人が見ている世界を間接的にでも垣間見たいなと思っても、そういう人とあまり仲良くなる機会がないから、ネットでそういう人に話しかけてもらえるの、人としてというのもあるかもだけど、純粋に創作のための情報収集としてもとてもありがたいんだよね…。わたしは二次創作の神物書きではないけど、嫉妬的な気持ちがあまりわからなかったから七瀬さんや友川さんよりも綾城さんに一番感情移入して読んでしまった。現にたくさんの人と関わって情報収集能力が高い人ならではのおすすめ小説を教えてもらって綾城さんは友川さんを知ったし、中島さんみたいな人はたまにデリカシーのない発言をすることもあるけれど、発言をじっくり考えて少ない弾数で結果を出すタイプとは違うマシンガン的なコミュニケーションの面白さがあるからどちらが上とかではないと感じている。

スーパーで買い物を袋に詰めてたら同じテーブルで袋詰めしてた中年の夫婦のうちの奥さんが旦那さんを「何そんなオドオドてんだよ なんか悪いことしてるからオドオドしてんだろ え? ずーっとオドオドオドオドしやがって 何もしてないなら堂々としてりゃいいだろうが 何かやってるからそんな態度なんだろ ああ?」ってなじっていた。旦那さんは「いやそんな…してないって…」って小さい声で言うばかりで反論らしい反論ができない様子だった。何があったんだろうなとすごく気になってしまった。

働いてた人には悪いんだけどねいばーまとめ閉鎖はインターネット調べ物しまくってる身としてはとても助かるなぁ ねいばーまとめを除外検索するために単語登録して、ねって打てば-付きで出てくるようにしてたものね…

とかなんとか言ったけどこれ以外にも怪異の生まれる経緯は色々あるし、おそらく中には現代の科学では解明できないものも含まれているとは思います(プラグマティズム的には暫定的真理は改定されて当然なのでいま科学的に説明できないからと言ってこの先永遠に説明できないとまでは思わないけども)

そういう意味では除霊ってかなり合理的な落としどころなんだよな… このジレンマとの対決を避けて怪異によるストレスを解消させるほうほうなんだものね

怪異を論理的科学的説明で解決することは体験者の怪異そのものに対するストレスを取り除く効果はあれど、体験者にコミュニティにおける自らの存在意義に自信を失うという新たなストレスを発生させてしまう可能性もある諸刃の剣なので、怪異に怯えるストレス<コミュニティ存在意義ストレスの場合、科学的論理的説明を試みる意味がそもそもないかもしれない。そうなると「だからあの空き家には近づかない方がいい」などの結論がコミュニティ内に伝播することになる。これも良かったり悪かったりで、事実空き家に近寄るのは子供や慢性的病気とつきあう人間などにとっては危険なのは間違いないが、噂の流布によって空き家の売却に支障が出るなど思わぬ損益を生んでしまうこともあるので、どっちがいいとも言い難い。

プラグマティズムの哲学者の中でもめちゃくちゃ怪異肯定してた人いたなと思うとこういう怪異の捉え方プラグマティズム的なのかもしれない。

例えば蜘蛛が怖い人がなんらかのすぐ説明のつかない現象を体験してそこに蜘蛛がいた場合、蜘蛛が明らかにこの現象に関与しているとしか思えない動き(じっとこちらを見ているなど)をしているように感じるし、逆に蜘蛛の生態に日頃から非常に興味のある者、好感を持っている者にとっては、そばにいる飼い犬を抱きしめて心の安定をはかるが如く、蜘蛛の存在に安心を得ることもある(見守ってくれている、或いは怪異を退けてくれたようにすら感じることもある)。

この場合の怪異っていうのは体験者本人にとって不可解で説明のつかないものという意味(体験者の恐怖が取り除かれないと客観的に第三者から見て説明がついたところで無意味なので)として定義したい。他者にとって怪異でないものも体験者にとっては怪異であったりするわけで、これは体験者本人が生理的に感じる恐怖対象などにも影響されるところが大きいと思う(蜘蛛を怖いと思うかどうか、など)。

自分の警戒心が有用でないと証明されてしまうと群れ(コミュニティ)に不要ってみなされてしまうかもしれないわけだから、これを避けるために人が自分の警戒心は確かだったと証明しようとする態度は至って正常だし、おかしくも何ともないので、その人というよりは人類のコミュニティのあり方そのものに巣食う怪異の一種と言ったほうがいいのかもしれない

怪奇現象の生まれ方として一つあるのが、実際は科学的論理的に説明できるものなんだけど、初見で理解できなかったために感じた第一印象の恐怖によって体験者が冷静な思考ができない状態になっていたというものがあるんだけど、単純にそれだけでは「後から考えればそういうことだったな」と考え直すこともできるはずなんだけども、そういった理解し直すターンを経る前に、その体験を他人に話してしまうと、(体験していないがために)冷静な他人からは「何だお前それは〇〇なんだよ」という科学的論理的な突っ込みを入れられる事になる。自分がこんなに恐怖を感じて必死になっていたことは無意味だったと受け入れることは意外と人間には困難(プライドというよりもっと原始的な群れ動物としての要素が関わっている気がする)なので、体験者はそれをまず否定、俺の恐怖をわかってくれない、と受け取ってしまう場合がある。そうなると人の脳はその科学的論理的説明が当てはまらない証拠を捏造しようとする。もちろん意識して嘘をつこうとなど思っていない。記憶が自動的に捏造され、存在しない音や姿を見た気がしてくる。このタイプもある意味でヒトの心に住む怪異の一種と思う。

刃牙の「俺あんたに憧れてンもん…」はすごいよかったなぁ

まあそれは別として好きなキャラは渋川先生です。鎬兄弟も好きだな劣等感の弟。あとまあみんな好きだろうけどちはるさん。

刃牙の親子喧嘩のあたりめちゃくちゃ面白いし普通に感動する 勇次郎毒親っちゃ毒親なんだけど、友達ではなし得ない友情に似た絆というか、そもそも親子である前に運命的な相手という感じするなこれ… 親と子という形で描いてはいるけどこれはどちらかというと運命的な友情に近いというか まあこの2人にしか当てはまらない関係なんだろうなぁ 親であろうと子であろうと友達だろうと恋人だろうと、その相手と自分の間にしか築けない関係性ってもんがあって、親子はこうあらねばというのも現実の常識的にはもちろんあるとは思うけど、そういう型とはまた別の、人間同士のオンリーな関係性を親と子で築くというのもまた自然だし見過ごされがちだけど当たり前にあって然るべきものなんだよなということを強く感じてしまった。親としてはアウトだけどね勇次郎はね。