みなみひろはる @hiroharu_minami@pawoo.net

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しばらくこっちにアクセスしてなかったけれども、遂にツィッターのアカウントがBANされたので、完全引っ越しを決定するなどw

例えば「法に依らない手段で表現者の意志を挫く」事も、自分の嫌いな表現者であれば「覚悟が足りない」と言い、好きなそれなら「許されない」と平気で言う恣意性の持ち主は、政治思想の右左を問わない。 そして、そんな人ばかりの声がネットでは大きく響いているのだから、ネット辞めて精神状態が改善するって話には真実味あると思うw

まあ俺は中毒者だから、いずれオーバードースで惨めに死にそうな気がするけどw

ロシアはクリミア半島を侵略と言われないやり方で、現実的には侵略しているけれども、あれが想起されるやり方で言論の自由、表現の自由が制限される世界というものを予感してる。

自由は完全に失われて居るわけではないが、ある表現が現実における大きな不利益、但しそれは法律に依らない形での不利益を以って、表現者の意志を挫き、現実的・実際的には言論や表現が制限され禁じられる世界、というものを想像するからだ。

「公共の福祉に対してその表現の存在価値はどれほどあるのか?」

これは正当な問いかけではあるが、恐ろしい問いかけでもある。「価値はない」とする基準が恣意的に動かされる可能性を、現実が嫌と言うほど示すからだ。

基準を動かす者は権力者だけではなく、在野のリベラリストも信用できないことが明らかだからだ。

俺はオタクではないしオタクであったこともないので「オタクだから」と言う理由で差別されたり侮辱されたりしたことはないのだけれど、そういう嫌な経験を何度もしたオタクは多い様で、そういう人達には、歴史的に見れば着実に前進し社会を変えつつあるフェミニズムが、その敵意と憎悪をまともにオタクに向けることで、また「公然と侮辱されることが問題とされない状況」つまり、オタクへの差別が過去よりも悪い状況で生じるのではないかという強い恐れを抱いている人が多いように思う。

俺もそれは杞憂ではないと思ってて、どんな「過去より悪い差別」がもたらされるのかと言えば、かつての様な露骨な侮辱や差別ではなく、何を言われても「それは侮辱ではなく、合理的な意見表明に過ぎない」「オタクが言う差別などどこにも存在しない」と主張され、それに大して知的にも物理的にも抗じ得ない状況が生まれるのではないかと、今の流れを見てて思うのである。

実は俺が知らないだけで、既にそういうリストは作られてる可能性があるかなと一瞬考えたのだが、現状は「糾弾はこれからが本番」であり、既に糾弾を受けた表現物をリストに入れるだけでは事例がまだ少ない。

そうなると、包括的かつ現実の表現物に当てはめて明確に区分の出来る基準を示し、その基準で評価した場合にいわば「有害表現物」と判定できるような作品を多数例示する、といったやり方になろうかと思うが、現状その様な明瞭な基準を示さずに「この作品は排除されねばならない」となっているから、その様な基準を見出し、示すこと自体が困難であるのだろう。

一方で、その様な規制の手法が甚だ恣意的であり「自分の嫌いな表現を潰したいがために、公共を持ち出して理屈をこねているだけ」と怒りと憎悪のこもった反論を受けてたりするのだろう。

今まで色々な表現物がPC的な観点から「公共の場にはあるべきでなく、取り除かれねばならない」として、実際に排除もされてきたのだけれど、こうなってくるとトラブルを嫌う公共的団体の方で「反ポリティカル・コレクトネス的な表現、および著作制作者一覧」みたいなリストが出回りそうよね。 既に「記者ハンドブック」で禁止されるべき差別表現などは広く収録されて、現実の禁止力・拘束力として機能しているわけだし。

既に公共の場にふさわしくないとして排斥を受けた「のうりん」や今回の「宇崎ちゃんは遊びたい」は名指しで排除リストに載ることは確実だろうけれども、この手のリストが現実に多くの公共的団体やトラブルを嫌う多くの私企業に参照されて影響力を手に入れると「反PCハンドブックに名前が載った作家は、もう同人誌でしか出せない」「コミケ準備会も圧力に晒されて厳しい状況」みたいな世界になったら面白いな。

ああ面白いとも!!

表現の自由を守るためにも妥協と我慢はかなり強いられるはずなんだけれども、その妥協や我慢をしたくない人間がマジョリティである日本で、表現の自由なんて建前は、本当に建前としてしか守られないんだよなと、つくづく思う。

建前としてしか守られないというのは、法や権力で直接の規制をしない代わりに、表現者側に自主規制を強いる様々な圧力の技術が発達している欺瞞的な世界のあり方な。

その欺瞞も他人を騙すだけではなく、自分を騙す自己欺瞞的なそれである所が恐ろしいのだ。

1ページ漫画にしてみた。

経済学のリテラシーや啓蒙努力がまるで足りない日本においては、タンス預金の害悪、経済に与える悪影響をちゃんと教わる機会がなく、ズルズル続く不景気の一因になってる、みたいな話をちょっと思って、その流れで「今の日本のタンス預金ってどれくらいなんだろ」と思ってググったら…… 日銀券の流通総額百兆円に対して、タンス預金が50兆円とかいう恐ろしい数字になっていて、そりゃこんな過剰貯蓄、それも完全な死金になるタンス預金であるとなれば、そりゃ日銀がいくら紙幣を刷ってもインフレなんかになるわけがないよなと、ちょっと絶望的な気持ちになってる。

この地獄のようなタンス貯金、万一インフレが多少過剰に進行したりすると、守銭奴共がパニックになって一斉に市場に出回ることで、自己成就的にハイパーインフレまで起こしそうな気もするなあ。

社会が高齢化しているってのは、単に年寄りが多くなったという話ではなく、年寄りに不可避な守銭奴化がこの様な経済的影響を及ぼすことなんだろう。

高齢者が溜め込んだ金を大事に使うことしか出来ないのは典型的な合成の誤謬であって「守銭奴」と呼ぶのも言い過ぎな感じはするのではあるが。

民主主義思想の発展と社会への浸透の結果、公共の利益のために表現の自由、言論の自由に対する制限、禁止圧力はどこまでも高まるのかも知れないなと思うなど。

自らが大事にすべきと思う公共の利益は右翼と左翼で大きく違うが、そのどちらもが民主主義的な理念と手続きを以て、表現の自由と言論の自由をギリギリのところまで縛っていくだろう。
どこがギリギリであるかという線は、時代とともに変わっていくが、それが緩んでいくことは多分ないだろう。

って云う絶望感がそこはかとなくある。

誰かの意見や論考を「属人的に評価しない」事が正しいとされてて、まぁ学問の場ではそうなんだろうけれど、実際上言葉で表現される意見や論というものが言葉だけで全部伝わるのかって問題があって、属人的に評価しないという姿勢は「すべて言語で伝えることが出来る」って立場だけれども、それって余りにも楽観的、空想的な考え方であって、現実の場にあっては「それがどんな人間の言葉であるのか」を重要な判断材料として使う「属人的な評価」の方がよほど正しいのではないかと思うのである。

まぁ好き嫌いに引きずられて判断を誤ることもまた多く、その弊害が甚だしいから「属人的に評価するな」が慣習的な知恵として採用されたと考えることも出来るのではあるけれども。

袁傪「その声は、我が友、李徴子ではないか?」

虎「違います。私は少年ジャンプを目指していた漫画家志望者で、マイナー誌で連載している友人を見下していたらこうなりました」

袁傪「そうか、これは失礼」

虎「ちなみに向こうの竹林には、なろう系小説を見下して『超大作の構想がある』と言い続けてたら虎になったやつがいます」

袁傪「いや、紹介とかいいから」

虎「あと詩人を挫折して公務員になった後けど上司に耐えられなくて虎になったやつもいます」

袁傪「そいつだーーーーー!!!」

「貧しいマンガが多すぎる」は三十年ほど前の話だが、当時から「それは民主主義の本質的欠陥から導かれるものであるから、この問題の悪化は不可避である」と宣言していた呉智英氏の見方が、残念ながら全く正しかったという話であるが、氏の言う様に「封建主義が民主主義を駆逐し、世界はより良い世界になる」とは全然思えないので、閉塞感MAXなのであるよ。

民主主義思想が無謬のドグマとなって、あらゆる批判を許さない構造になっていることを、その外側から批判するために儒教を取り上げるところまではわかるんだけど、実際に儒教系の封建思想で統治さいた過去の中国や日本を知っていて、何でそれが民主主義よりもマシな社会をもたらすと思えるのかが全然わからないのよね。

「貧しいマンガが多すぎる」 というのは朝日新聞の結構有名な社説だが、全文の引用があった。

hmt.u-toyama.ac.jp/socio/lab/s

今はマンガの代わりに「萌え絵」「萌え表現」がそのまま当てはまるだろう。

末尾近くの 「もちろん、低劣であることを理由に、法律や条例で規制するべきではない。問題の多い雑誌などがあっても、話し合いと、出版側の自制で解決していくべきだ」 という規制側の態度は今でも一貫しているが、俺が何より自己欺瞞的で恐ろしいと思っているのが、こういう狡猾さなのだ。

目的は表現規制だし、生じる事柄もも正真正銘の表現規制なのだが「いえいえ、これは表現規制なんかではありません」と言える様に手口を工夫する性悪な狡猾さと、その狡猾さを自己欺瞞して何か素晴らしいこと、美しいことでであるかの様に自分自身を納得させているインテリがいて、そういう類の人間が世の中を動かしていることが恐ろしく、やりきれない思いになるのである。

「被差別階級としてのオタク」、つまり最初から栄誉からは遠ざけられ、面前で嘲ることに問題を感じなくて良い類の人々としてのオタク、というアイデアは、右翼系のオタクたちから「我々は現実にそういう不当な扱いを受けている。特にクソフェミから」と主張されて久しいが、確かにツィッターなどで影響力のある一部のアカウント(カブトムシとか)には、長年の敵対で積み上がった憎悪がそういう形になって現れてるよなと思う。

まぁ、そういう話をいつもしている白饅頭とかにも深い嫌悪を感じるわけだけれども。

どれくらい深いかと言うと「あいつら抱き合って崖から身を投げれば気分爽快になれるのに」と本気で思うレベルで。

「フェミニズムや民主主義思想の普及浸透が、却って表現の自由に対する制限をより強く深刻なものとする逆説」 を多く見るようになって、呉智英氏あたりは「ほら見たことかw」って笑ってそう。

安倍ちゃんばかりが忖度させている様な話をアベガーな左翼は一時良くしていたけれど、表現規制周りでは法的規制を避けて規制の実質を取るために「自主規制」を持ち出すことが多い関係で、表現者に忖度を強いるのはむしろフェミニストなどの左翼の方が安倍ちゃんよりもひどいのではないかと思うのだが。

NHKドラマ「聖☆おにいさん」に『冒涜に怒りを覚える』『放送料払って侮辱の言葉を聞くとは』と牧師…そこからいくつかの考察 - Togetter togetter.com/li/1419161 @togetter_jpさんから

まぁ「傷つくクリスチャンが居るのだから表現者は忖度しろ」って話で、ああはいはいそうですかでスルーするしかないような話であるのだが、嫌な気持ちになるのは「イスラムはネタに出来ないくせに」ってアイデアがあちこちに出てくるところ。

何でイスラムを扱わないかは明らかで、サルマン・ラシュディの「悪魔の詩」がらみでイラン、というかホメイニが一体何をやったかを考え、イランの政体がホメイニ時代と今なお同じであることを考えれば誰にでもわかることだ。

例の件では日本人の翻訳者も惨殺されているのである。

それが頭にあれば「イスラムはネタに出来ないくせに」という発言は「殺されなきゃワカンネーのか?」って話を仄めかされてるのと等価なんだよね。

最近の電話付きカメラはマルチレンズと、その画像処理を売り物にしてきてるけど、同じ様なコンセプトのコンデジもどこかで出してこないかなと思ってる。

カメラメーカーは大きなレンズ・大きな撮像素子の組み合わせしかやってないみたいなので、そもそも技術がなくて出来ないのかな。

献血すると時々お土産くれたりするんだけど、かさばる奴だと面倒なのでありきたりで構わないからボールペンとかにして欲しいw

ノベルティ用の予算頑張って、ボールペンじゃなくてプレピーあたりをくれたらとても嬉しいのだがw

前時代的な権力による露骨な検閲や表現の自由の圧殺というのは、ある意味素朴・粗暴で、自らしていることが表現の自由を足蹴にしていることに自覚的(というか開き直ってる)感があるのだけれど、フェミニストの主導する「表現の自由の制限」は「そのようなものは表現と呼べず、最初から自由に公表できないものである」など、自分のすることは表現の自由に対する制限などではないと欺瞞すること、法や権力に依らず「自主的な規制・制限」を同調圧力や商業的な力その他を以って実施させることで、実質的な検閲・表現の圧殺を目指す狡猾さがあり、それはそれで恐ろしいものだと思うのである。