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馨秋 

 だらりと力無く下ろしたままの左手から、真っ赤な雫が滴り落ちる。
「かおるにいさん」
 あいたい。こんなに会いたくて、あいたくしてたまらないのに。ぱっくりと開いたままの傷口。其処から次々と溢れ、滴り落ちる赤。赫。紅。朱。緋。黙って見つめていれば、眼球の奥から滲み出した涙が音もなく傷口に零れ落ちて。赤に混じって、浸食されて、溶けていく。
 軽い音をたてて右手からすり抜けたのはちっぽけな果物ナイフ。鈍く光る刃物は、綺羅々々と私を嘲笑う。
 ごめんなさい。あと少しであなたに会えるのに、この腕がもう動かない。あと、ほんの少し、深くナイフを押し当てれば、あえるのに。
「ごめんなさい」
一緒にいられなくて、ごめんなさい。一人にしてごめんなさい。許して欲しい、だなんて言わないから、隠世へ行っても、私のことを忘れないでほしい。
 あなたの居ない世界を生きていく勇気も、あなたの居る世界に足を踏み込む勇気もない。どちらを選ぶことも出来ない私は、動けずに只泣きながらうずくまるだけだ。
「おねがい、にいさん。かえってきて」
 この部屋に残っていた兄さんの香りは既に消え、沈んだ影は二度と動きそうになかった。

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