MasagoKazyoshi @MasagoKazyoshi@pawoo.net

リハビリしないと何も出来ん。ちゃちゃっとした落描きにえらく時間がかかってしまった。非常に遺憾。

トミノで脳みそやられとるやないか。 >BT

ガンダムばかり見てると頭の中がミノフスキー粒子でダメになるから、もっとほかのアニメみましょう

あんまりわかりやすいと、曲解して引いちゃう人が居る。難しければ理解以前の段階で引いちゃう人が当然居る。普通程度のものには見向きもしない人が居る。万人に受けようなんざ出来るわけがねえのだ。

コンセプトがハワイという喫茶店へいってきた。建物の外観もインテリアもきちんと凝ってて、う~んハワイア〜ン、て気分にさせてくれるのだが、接客が丁寧な日本式なので、肝心なところで気分が挫かれる。
飽く迄僕個人の勝手な思い込みでしかないけれども、ハワイの人達の接客態度って、お客さんを友人扱いしてるような感じ。友人だから親切にするけど、サービスが至らなくても友人なんだから許してくれよ、みたいな。

「うん、此奴は阿呆だ、関わり合うのは一切止そう」などと思ったものの、その阿呆の言い草を聞かされる羽目になって、流石にブチギレたよね、という経験がございまして、あのときの気分の悪さたるや、仲々普段味わい難い趣のもので。殴りはしなかったものの、怒号とともに追い返したからな、流石にな。
昨日今日の話ではなく、もうずっと若い頃の話なんで、記憶的にも詳細は曖昧になりかかってきてるのだけれど、気分だけはフラッシュバックすんのね。細かく思い出せないことで気分だけ面白くなくなるのって、不条理だ。

ビキニ水着って、ビキニ環礁でその当時盛んに爆発実験してた“核爆弾並みにショッキングな水着”って意味ですわな。するッてえとマイクロビキニなんてのは余ッ程威力が小さくなってしまって、少なくともショックではないのではなかろうか。 

機能が形態を支配するのは極めて当たり前の話で、止まるような形に設計されていないブレーキは機能しない。ブレーキに期待される本質的な機能とは、とにかく(何かを)止めることである。合理的な形で機能を追求する結果、ブレーキ装置の外観が決定されるが、それを美しいと思うかどうかは別問題。敵のレーダーに引っかからないという嫌がらせをしながら、敵の資材を破壊し敵人員を殺傷するという、実にいやらしい機能を追求された最新鋭戦闘機、僕も格好良いデザインだなあと思うものの、世の中にはあれを格好良いとはどうしても思えぬ人がちゃんと居る。

合理的なデザインは洗練された姿になる、という信念が、アメリカンデザインを学んだ人には植え付けられてしまうが、当の合衆国市民はそこまで合理的なデザイン精神を有していない。ありゃ要するに、自分たちが持ってないからこそ憧れ求め続けている、美徳のようなものだ。

市場に出回るあれがダサいこれがいけない、こうした方が良いああするべきだ、と仰る方々、確かに対案を示されて建設的ではあるし、洗練という事についても重要だろうとは思う。けれど、あんた方のその理屈、市場に淘汰された側の理屈でな。売れぬ物は悪しき物という絶対は曲がらんぜよ。
洗練とは字を読みゃ理解できる通りの行為で、それその物がゴロリとある状態から、不要物を省いて形を矯めて、必須の要素だけに構成し直す行為であって、要するに本来持っていた要素を削ぎ落としていくことなのである。洗えば練れば、当たり前ではある。
人が洗練を好むというのは、単なるデザイナーの幻想であって、そういうのを好む経済的合理人間だけなら、さぞや洗練された、つまらぬ世の中になるだろう。レス・イズ・ボア(退屈)というやつである。
レス・イズ・モアとはモダンデザインのあるべき姿だが、そういうのばっかりに取り囲まれてしまったポストモダニストは、その余りの味気無さにレス・イズ・ボアだと叫んだわけで、何事も徹底するのはいけない。最早ポスト・ポストモダンと言われてからも30年、洗練という戦略はとっくに破綻した後だ。

しかしテンペラなんて技法、絵の具の色粉がまだ宝石を砕いていた時代には、当然鶏卵なんかも高価な代物だったけれど、今は業務用缶詰でアクリル絵の具溶きゃお手軽にできちゃうから、技術文明の進歩ってのは大したもんだ。変わらないのは腐った卵の臭いぐらいか。
卵に腐敗防止剤や臭気抑制剤混ぜりゃいいじゃん、なんて思うじゃん?思うじゃん?絵の具の発色に問題が出てくるので、卵黄は混ぜ物無し(雑菌は沢山繁殖してるけど)じゃないと、困っちゃうんだよナァこれが。

植物油、鉱物油、得体の知れないレシピのブレンド油…大学のアトリエは、夏場ともなると一層の臭気を放つ場所だったのだが、そういう諸々の油の臭いを突っ切って、ダントツに臭かったのがテンペラやってる同級生のアトリエだった。あんまり臭いんで隔離されちゃったという個人スペース。
テンペラの何がそんなに臭いのかというと、絵の具の溶剤に卵黄を使うからなんだけど、絵の具混ぜるために一々卵割らなくても、業務用卵黄の缶詰開けときゃ沢山使えるわけで、つまり、腐る。絵の具が溶けさえすれば、別に食べるわけじゃないんだから卵黄は腐っても使えりゃ良いのも道理なんだけども。
あの当時、腐敗卵黄の臭気に負けずテンペラ画を制作していた同級生、今頃何をどのようにして制作しているやら。ヤツは指物から始めて、自作の変形カンバスにテンペラ使ってたんだけど、ほんというとテンペラってのは生乾きの漆喰に描くものなんで、今頃は何ぞそういう“本当の”壁画を制作してるかもなあ。

今は油絵やってるといっても、使う油はほぼオドレス(無臭)オイルだから、もしかすると美術学校のアトリエなんかも、昔よりは臭くないのかもしれない。僕が学生だった’90年代初頭は、オドレスオイルが出始めたばっかりで、アトリエは強烈な油の香り漂う場所だった。
僕そのものもまだその当時は油絵の具を使用していたから、当然溶き油も所有してたんだけど、それがラベンダーオイルだったというね。ほんの少量アルコールに溶いて体につければ素晴らしい香水だろうけど、原液でっせ、凄いニオイだった。

故無き差別に基づく殺人という行為は、規模の大小に関わらず邪悪な行いそのものである。それはその通りだが、“廃棄物を資源として活用”というのは寧ろ供養の一環ではなかろうかという感覚が僕にはある。人皮の装幀本と聞かされて手に取る本が、実際まさしくその通り死者の体から剥いだ革の表紙であったとして、何やらそれにまつわるおどろおどろしいいわくだの聞かされれば薄気味も悪くなろうが、先ずはなるほどナアと手触りを確かめてもいいじゃないか。

毛髪からは食料が、医薬品が。肉は勿論食料に。脂肪からは石鹸、皮膚はブックカバーに靴に鞄に、骨はバネ部品にも肥料にも。ドイツに限らず我が日本でも随分と人体の工業的可能性は探られたのだが、悍ましきは悍しきとして、今更誰を叱り憎悪せよというのか。
『賢者の贈り物』って、人毛のマフラーだったよな。
『清明上河図』という、大賑わいの開封の街を描いた作品が制作された、宋の時代の太平の世の中、その開封の街の市場には人肉市場が開設されていたそうだが、市場で肉を扱うならば、そこで出てくる廃棄物ってのも当然無ければおかしい。皮も骨も毛も取引はされた事だろう。
人毛、特に女性の頭髪は丈夫なものであるとされ、日本でも昔からお寺の鐘楼に使う縄には女性の髪の毛が混ぜて綯われていた。とりわけ見事な入れ墨をした人物は、死後作品保存のために皮を剥がれることが屡々あった。誰かの入れ墨の鞣し革で出来た刻み煙草入れやら筆入れやらというのは、昔から日本では存外とそこら中に存在していたのである(まあそれでも“珍品”には違い無いが)。

[Nazi photo album made from HUMAN SKIN of a death camp victim is discovered](dailymail.co.uk/news/article-8)
デーリー・メール紙の扇情的な書き方に辟易するが、人皮で装丁された写真集が有ったよという話である。他にもランプシェードやらスイッチやら。人の身は捨てる所がないというやつで、今更誰かを叱れという話ではない。

ちなみに、日本芸術院では美術部門に「デザイン」という文科は存在しない。日本芸術院の定義では、デザインはそれ単体では芸術ではない扱い。なんてこった。

平成17年度の国勢調査統計によると、日本の就業者総数の約1%が「芸術家・クリエイター」という項目にひとまとめにされている。その数58万4千275人。「彫刻家・画家・美術工芸家」と一括にされた小分類では3万8千781人。全就労者に対して0.06%の割合だそうな。
「自分はこれを商売にして税金を収めてます」という自己申告の「自称・芸術家」の数字が3万8千人程度というわけで、自他ともに認め得る、まさしく「あんた画家だよ」と言ってもらえる人間の数は、ぐっと減って13人(日本芸術院第二文科「洋画」会員数)。

画家は云うたらエンタテイメント機材を制作する、製造業。エンタテイメントサービスは、制作したコンテンツが独自にこれを行うんであって(だから作者の死後も絵は鑑賞者を楽しませる)、画家自身は全くしがない製造業。
だから、製造単価と手間賃をふっかけて何が悪いんじゃ、ありがたがれ。ということにもなりかねないんだけど、画家の辛いところは、権力者に寄生してないと生きていけない産業構造なんで、慎ましやかに相場の代金を請求することになる。

まーしかし、酸化した食用油なんて聞くと、あの絶望的な悪臭を想像してしまうところだろうけれど、ありゃ液体だからである。ポリマー化してガラス質になってしまえば、油は全く臭わない。ダビンチやフェルメールの真筆を熱心に嗅いでも、するのは埃と黴の匂いだけである。