MasagoKazyoshi @MasagoKazyoshi@pawoo.net

僕の軽トラに載っけてるコンテナ内を、なんちゃってラウンジにしたぞ。ベッドルーム形態、ラウンジ形態、チェストに薬缶と鍋を押し込んだ様子、移動形態。ふらっと何処かへ漂泊の思い。

» アカデミー賞「ひどかった」 トランプ氏、『パラサイト』受賞に不満と侮蔑 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News afpbb.com/articles/-/3269477
「韓国とは、貿易で十分すぎるほど問題を抱えている。その上、今年最高の映画の賞も渡さなければならないのか?」 

» 「白い恋人」製造停止 中国人観光客減少の影響で | NHKニュース www3.nhk.or.jp/news/html/20200

そこまで。つまりもう日本人は「白い恋人」食べてない、と。

ジョホール州の王子トゥンク・イスマイル・スルターン・イブラヒム殿下(マレーシアは州毎に王家が在り、各王の互選制で国王が決まるので、王子さまの数が多い)。

カレーの王さま(王子さま味)

誤解されたらつまらんので、恐る恐る言いたいことを言ったが、なお言葉足らずであるとお怒りになるお方もいらっしゃることだろう。相互共通認識の不可能性については、哲学で証明されていることであるし、ご寛恕いただきたいところである。

言わずもがなの言わぬが花を、ついつい嘯く馬鹿も居る。

どうにも僕自身デリカシーとかそこら辺に関して人様にしょっちゅう叱られる身なので、またしても差別的言辞を弄していると目ツボにとられやしないかと些か思うが、健常者のスペクトル外と定義される方々は、内的小宇宙の自己表現をしても、健常者がそれと気付かない傾向にあるのではないか。重ね重ね申し上げるが、少なくとも今この場において、僕は差別的悪意でこれを云っているわけではない。表現とは解釈を取り外しても制作できる行為であるが(それこそ機械表現とか)、その「解釈」こそが他者と自己を区切る、表現における重要な要素なのだと思う。

具象表現とは、「精神的には健常者のスペクトル内」という範囲の者に限って言えば、原則的に「観察→認識→解釈→出力」という手順で制作される。自閉症の方々がよく“光学的正確さ”を備えた精密な絵を描かれるが、「解釈」の働きが(健常者基準で言って相対的に)弱いからその様な絵に”なってしまう”。
観察、認識、解釈というひと纏まりの心的動作の事を、一般的な日本語に翻訳すると、「見る」という行為になる。
差別的悪意をもってこれを云うのではないが、鬱に陥って居られるお方や、自閉症の方々というのは、「写生画」を描くにあたって、「観察→認識→出力」という行為回路が組み上がっているように見える。「解釈」をすっ飛ばしているか、もしくはその働きが非常に弱い。認識したとおりに体を動かせる身体制御能力が備わる限りにおいて、解釈という内的プロセッシングは、出力に際しての夾雑物であるとも云ってしまえる。が、結局そここそが個人の内的世界そのものであるのだから、健常者の制作する具象表現には自ずと「解釈」が色濃く内包されるのだ。

具象表現で見た儘を描くということと、光学的正確さという概念は、全く別の事柄である。あなたが見たたまに描いたモチーフは、あなたが見たままに描けたという納得が有りさえすればよい。僕にはそう見えんなあそれは。と僕がイチャモン云うたとて、そんなもん気にする必要はどこにもない。

一般的に「写真みたいな絵」というのを、美術用語では「光学的正確さを備えた絵画」と言うわけだが、つまりどういう事かと言えば、「科学の一分野における正確さの度合いが高いだけで、それが即素晴らしさとかそういった評価に結びつくかと考えたら、そんな事は全く無い絵」ということである。

僕は「理論武装」という言葉が嫌いで、しかし理論そのものってのは何につけても必要になる場面はあると思ってるから、とにかくどんなもんにでも理論ちゅうのは存在するもんやとは思ってる。武装して、武器として使用すると、屁理屈にしか聞こえんけど。
理論てのは広く知られることが大事だし、深く知ることも大切だけど、そうやって身につけた理論知識は、言葉として速射機関砲的に消費するもんじゃねえやな。理論は実践してこそ報われるってもんのはずだ。
僕個人が「理論武装」という言葉を嫌うからといって、僕が人様に理論武装を勧めねぇのかと云うと、これも違う。なんも知らずにブラウン運動見てぇな当てずっポで動くより、理論の鎧で身を守り給えよ、と心配になっちゃうお人は、割とよく見かけるので心配はしてあげてる。 

ダビンチの天才は、その目と脳の直結具合と、インプットに対する解析の異様な早さに追いつく腕の精密制御にある。要するに僕が見るところ、やつは地球人ではない。地球人はそんな目玉も脳髄も筋肉も持ってねえよ。

口はばったい言い方をするが、この僕でもフェルメールと同じ筆さばきで、フェルメールと同じテクニックを使うことはできる。実際、彼の絵を間近で幾つかじっくり観て、それは確信できた。要するに絵ってのはテクニックじゃねえってことなのだけど。
フェルメールは”秀才”だから、凡夫の僕でも解析の結果、同等に筆を動かすことができると確信に至ることが出来たんだけど、ダビンチはダメだ。まず、彼と同じものの見え方が、そもそも出来ない。ほんとに彼の場合、何やってその絵になったか判んないのがいっぱいある。

血(のように赤い夕日)のバレンタインデー

だから、ファシズムには穏健派と呼べるものが本質的に存在し得ない。穏健ファシズムとはつまり単なる中道日和見主義のことになってしまうからである。ファシズムほど日和見主義を憎んだ奴らは居ない(ヒトラーなんかは日和見主義者に痛い目見せられてるから余計に)。

ファシズムが右翼、ましてや極右なんぞではないという証拠に、彼らの政策には労働階級の権利向上、社会福祉の充実、インフラの改善など、実に社会主義的なものが多い。さりながら彼らの拡大主義は、資本階級と手を携えあった資本帝国主義そのものであって、左翼であるとはとても言えない。
要するにファシズムとは右でも左でもない、急進的中道過激派の思想のことであって、戦後米英の悪宣伝によって極右のこととされてしまったファシズム観は、完全に的はずれなのである。
で、翻って21世紀現在世界のあちこちで蔓延っている「ネオナチ」の輩共、彼奴らは戦後米英の悪宣伝の申し子であって、1930年代に独や伊にあの様な奴輩が存在したら間違いなく、良くて教化施設送り、悪ければ銃殺である。ファシズムほど誤解をされている政治思想もまたとない。
ファシズム/全体主義は、いみじくも石原莞爾が喝破した如く、所詮非常時の全体合宿における思想態度なのであって、現在からこれを評価すれば、間違いなく失敗した政治運動の核となる思想だったのである。

やりたい事の内、やれば今すぐにでも出来る類の事は保留して取っておけ。それは有り得べき将来の楽しみだ。手っ取り早く楽しみを消化してしまってはつまらなくなるばかり。今やってる、やれてる事をやれ。出来そうもない事に手を付けるな。

どのような商品であっても、出来れば店頭でじっくり手に取って検討したい。ネット通販が便利というのはわかるけれども、実際に手に取れぬ物を購入するというのは、“実質知ってる物”しか安心して買えないということだ。

趣味を始めるのに遅いという事はない、とはまさしく事実なのであるが、何事も始めるには早い方が良い、というのも事実であって、うかうかと過ごしているぐらいであれば早いとこ趣味を見つけたが宜しかろう、という辺りに落ち着くのではないか。

合衆国土産を頂いた。そこそこ美味しいミントタブレット。まあそれにしても、いかにも合衆国的な缶ですこと。Made in Chinaだけどな。